第16回 ミイラの発掘 クフ王のミイラを想像する

初めてのミイラ体験

 ミイラといえばツタンカーメンなどを思い出す人が多いだろう。実際、彼が生きた新王国時代(紀元前1539年~1077年頃)には数多くのファラオのミイラが発見されており、現在でもカイロ博物館の特別室に安置されている。

 ミイラ作りは古くは5500年前から行われてきた古代エジプトの埋葬習慣だが、実は時代によって見た目や作り方が異なる。遺体は獣皮に巻かれたもの、石膏プラスターでかためられたもの、包帯が巻かれたものと多様だし、作り方も内臓が取られたり、取られなかったりする。埋葬方法も屈葬だったり、横向きだったり、仰向けだったりと色々だ。

 私が初めてミイラに触ったのは、エジプト最古のピラミッドが建つサッカラの墓地での発掘だった。砂漠から掘り出されたばかりのミイラは、一見すると保存状態が良く、包帯だけでなく、髪の毛も残っていた。しかし持ち上げると、身体は崩れて粉塵となって指の間からこぼれ落ち、辺りの砂と混じって、後には骨だけが残った。

ミイラといえば、こういった姿を想像する人も多いだろうが、作り方や質は時代や社会的地位によってかなり異なる。[参考記事]ナショナル ジオグラフィック日本版2009年4月号特集「古代エジプト 男装の女王」(Photograph by Kenneth Garrett)

 当時、私はカイロ・アメリカン大学でエジプト学を学んでいた。墓地の発掘に参加したいと思い、サッカラのネクロポリス(大規模な墓地)の発掘調査を行っているポーランド隊のカロル・ミシュリヴィエッツ教授の特別講演があったとき、彼にチームに加えてもらえないか頼んでみた。ミシュリヴィエッツ教授は、見習いで良いのであればと、快く迎え入れてくれた。

 ポーランド隊は、サッカラの階段ピラミッドの周壁を囲うように、人工的に作られた巨大な「乾いた堀(dry moat)」の西側を調査していた。この巨大な堀は、初期王朝時代(紀元前2900~紀元前2545年頃)に作られたものだが、その後、数千年間で砂に埋まり、末期王朝時代(紀元前722~紀元前332年頃)には多くの民衆が砂の下に土葬されていった。そのため、そこには数え切れないほどの遺体が重なるように埋葬され、「ミイラの層」をなしていた。実際、発掘調査では600体ものミイラが1シーズンで掘り出されることもあった。ミイラのほとんどは、触れれば塵になってしまう状態だった。

ミイラ作りの松竹梅

 古代ギリシアの歴史家であるヘロドトスによれば、エジプトのミイラ作りには「松・竹・梅」ならぬ上・中・下の3段階のグレードがあったという。

 一番手が込んでいる上級はこう書かれている。「先ず曲った刃物を用いて鼻孔から脳髄を摘出するのであるが、摘出には刃物を用いるだけでなく薬品も注入する。それから鋭利なエチオピア石で脇腹に添って切開して、臓腑を全部とり出し…つづいてすりつぶした純粋な没薬と肉桂および乳香以外の香料を腹腔に詰め、縫い合わす。そうしてからこれを天然のソーダ(筆者注:ナトロン=天然の炭酸ナトリウム水和物)に漬けて七十日間置くのである。…七十日が過ぎると、遺体を洗い、上質の麻布を裁って作った繃帯(ほうたい)で全身をまき、その上からエジプト人が普通膠(にかわ)の代用にしているゴムを塗りつけ」て、完成する。

 中級は、杉から採った油を遺体の腹一杯に満たし、臓器を取り出さず、ソーダに七十日間漬ける。そうすると臓器は杉油に溶解し体外に排出する。後は骨と皮だけが残るので職人はそのまま遺体を引き渡す。

 「梅」である最も安価な方法は、下剤で腸内を洗浄したのち、やはり七十日間ソーダに漬ける。(ヘロドトス『歴史』巻一 86-88節 松平千秋訳 岩波文庫(上)参照)

歴史の父ヘロドトスの胸像。メトロポリタン美術館収蔵。(© Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons / CC-BY 2.5)
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 私が掘り出したミイラのほとんどに包帯は巻いてあったが、おそらく下の部類に入るのだろう。砂から掘り出したときにはきれいに見えるが、実際にはひどく脆い。そのため、発見するとすぐに写真で記録を撮り、実測をし、後は骨だけを取り上げる作業になる。そういった作業を繰り返し、下の層へ下の層へと発掘を続けていく。

 それは言うまでもなく学術目的の調査ではあったが、古代の人たちがどのような思想を持ってミイラにされたのかを想像すると、合掌せずにはいられなかった。

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