最期までナショジオの名をかたり続けたナチス党員

ナショジオ史上最悪のスキャンダル(後編)

2017.05.10
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ベルリンの町を埋め尽くすハーケンクロイツの垂れ幕。その陰に隠れるようにして見えるのは武器庫(画面右)。(PHOTOGRAPH BY WILHELM TOBIEN, NATIONAL GEOGRAPHIC CREATIVE)
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◆前編「ナショナル ジオグラフィックに潜入したナチス」はこちら

上着の襟にハーケンクロイツ、車のドアに星条旗

 1940年冬、在イタリアの米国領事は全ての米国人に祖国への帰還を命じた。しかしダグラス・チャンドラーは、ビザを手に入れて家族とともにドイツに入国した。そして到着するとすぐに宣伝省の採用担当者に連絡を取り、無給での奉仕を申し出た。

 ヨーゼフ・ゲッベルス率いる宣伝省の採用担当だったウルリッヒ・フォン・ビューローは、第三帝国放送局の対外短波ラジオ放送プログラム「USAゾーン」で、チャンドラーに番組枠を与えた。USAゾーンは、戦争への関与反対に国民感情を仕向けることを目的とした米国向けのプログラムである。チャンドラーの妻ローラは、当時の日記に次のように書いている。「米国のために働く願ってもない機会をダグラスに与えてくださった神に感謝します」

 その頃、世界のラジオでは東京ローズやホーホー卿といったプロパガンダが数多く行われていた。ホーホー卿は米国生まれのアイルランド人で、本名をウィリアム・ジョイスという。チャンドラーと同じくベルリンから、上流階級のアクセントがある甲高い声で、ウィンストン・チャーチルを非難し続けていた。1941年4月、「ポール・レベル」という名でチャンドラーもその仲間入りを果たしたわけだ。(参考記事:「20世紀の戦争プロパガンダ地図12点、敵はタコ」

 ヒトラーとゲッベルスは、5つのプロパガンダ・プログラムを守るようチャンドラーに指示した。これらは「心理学的な兵器」であり、後にチャンドラーの国家反逆罪裁判で明らかにされた。1)ボルシェビズム(ロシア共産主義)は全世界にとって最大の敵である。2)世界中のユダヤ人はボルシェビズムを信奉している。3)ドイツ人は世界一幸せな国民で、世界最高の福祉を受けている。4)ドイツは無敵である。5)英国は経済的・政治的に退廃している。(参考記事:「ヒトラーが最後の日々を過ごした地下壕」

 具体的な放送内容は、ゲッベルスが開く毎日の会議で決められ、それをそのまま流していた。

 ベルリンでのチャンドラーは、上着の襟に必ずハーケンクロイツを着用し、ドアに米国旗がペイントされた茶色のメルセデスを乗り回していた。ベルリンでチャンドラーに面会した「タイム」誌の記者は、「背が高くハンサムで、きれいな銀髪、身なりも振る舞いもきりりと引き締まっていた」と書いた。

文書でたどるチャンドラーの転落、写真13点
フォトギャラリーはこちら(PHOTOGRAPH BY MARK THIESSEN)

“宣伝の天才”ゲッベルスを上回った賛辞

 放送開始から1カ月後、チャンドラーはラジオで自分の本名を明かし、さらにナショナル ジオグラフィックの名前を10回近く出した。そのとたんに、ラジオを聴いた読者からワシントンD.C.のナショジオ本部に問い合わせが殺到した。ナショジオ誌の副編集長だったジョン・オリバー・ラゴースは、その手紙の多くへ個人的に返事を書いた。

 また、「米国最悪の反逆者(America’s No. 1 Traitor)」と題されたある社説の中で、チャンドラーの元友人のアルバート・A・ブラントは「ナチスの正当性、栄光、無敵さへダグラス・チャンドラーが送った賛辞は、ゲッベルスをも上回った」と書いている。

 米国で大変な騒ぎとなっていた頃、チャンドラーはベルリンでの不遇に惨めな思いを抱いていた。ノイローゼと不眠症に悩まされ、表向きはそんなそぶりは見せなかったものの、裏では酒を浴びるように飲んでいた。ラジオ収録のたびに体調が悪くなったと、本人は後に書いている。

「1時間も経たないうちに緊張のあまりみぞおちの辺りが激しく痛み出し、毎日のようにひどい下痢に襲われた」

 上司に対しても延々と不平を並べたてた。宣伝省が自分のためにアパートを探す手伝いもせず、まともな仕事部屋も与えられなかったことも不満だった。番組の音楽、他のアナウンサーたち、何を言うべきか指図されること等々、彼にはとにかく全てが気に入らなかった。やがて上層部は彼を停職処分とし、法的措置をも辞さないと脅しをかけてきた。

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