世界を変えた航空戦「バトル・オブ・ブリテン」

第2次大戦でドイツが初めて大敗を喫した75年前の戦い

2015.07.15
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バトル・オブ・ブリテンの期間中、ドイツ軍は絶え間なく沿岸沿いの飛行場や工場を爆撃した。(PHOTOGRAPH BY AP)
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 1940年7月10日、英国の戦闘機部隊を発見したドイツ軍のパイロットが、基地に無線を入れた。ドイツ空軍の司令官だったヨハネス・フィンク大佐は一言、こう答えた。「破壊せよ!」

 すぐに、ドイツ軍の航空機70機が駆け付けた。英空軍のスピットファイアとハリケーンは、大急ぎで4つの戦闘隊形を組んだ。

 バトル・オブ・ブリテンは、こうして始まったのである。

1940年9月9日の爆撃で、あるドイツ機は1トン以上の爆弾を落とした。(PHOTOGRAPH BY ULLSTEIN BILD/GETTY)
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 戦闘は、一度では終わらなかった。ドイツ空軍は、4カ月にわたり英国を攻め続けた。航空機のみで戦闘が行われた大規模な軍事作戦は、これが世界で初めて。それは同時に、第2次世界大戦でドイツ軍が初めて大敗を喫した戦いでもあった。

 この戦いで、英空軍兵500人、ドイツ軍パイロット2600人、一般市民6万人が犠牲になった。しかし、英軍が勝利を収めたことで、ドイツが計画していた英本土上陸作戦「アシカ作戦」は阻止された。

夜を徹しての空襲に、地下鉄駅で眠るロンドン市民ら。安全を確保できぬ者も多く、バトル・オブ・ブリテンの期間中に6万人の一般市民が命を落とした。(PHOTOGRAPH BY AP)
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近代的航空戦の幕開け

『The Battle of Britain: Five Months That Changed History』の著者、ジェームズ・ホランド氏は、この戦いには関与した人数が少なく、犠牲者も比較的少数だったため、その重要性が軽視されていると述べる。さらに、その戦略的価値もさることながら、当時の新技術であるレーダーが大きく貢献した戦いでもあった。

 ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、英国のレーダー局を重要な標的だとは思っていなかったため、一連の作戦中に破壊したレーダー局は、わずか1つだったと言われている。

 ドイツ人には、英国人はテレパシーが使えるのではないかと疑う者もいた――あながちそれも間違いではなかったのだが。英軍は、最新のレーダー網を持っていただけでなく、暗号解読にも成功しており、ドイツ軍のやりとりは筒抜けになっていたのだ。

爆撃機ハインケルHe111の鼻先に座り、英国を目指すドイツの機関銃手。この戦いで、2600人以上のドイツ空軍兵が命を落とした。(PHOTOGRAPH BY AP)
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 この戦いに参加した英軍パイロットはわずか3000人。「人類の戦いの歴史において、あれだけ少数の参加であれだけたくさんの人が、あんなにも大きい恩恵を受けたことはない」と当時のチャーチル首相は後に振り返っている。

 また、英軍パイロットには、ドイツ軍にはかなわない地上からの支援があった。当時英国は、ドイツの2倍の航空機を生産できたのだ。1940年7月、英国は496機の戦闘機を生産した。それだけでなく、英軍パイロットは、自機が撃たれてパラシュートで脱出しても、24時間後には再び空に向かうことができた。一方のドイツ軍パイロットは、運河におぼれて死んでいくだけだった。このように、英空軍がどんどん強くなる中、ドイツ空軍は勢力を弱めていったのである。

空襲を受けたロンドンの街並み。がれきに埋もれた遺体を探す労働者の姿が見える。(PHOTOGRAPH BY AP)
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チャーチル首相も救われた

 戦いが始まる2週間前、ドイツ軍の攻撃が近づいていることは明らかだった。時のウィンストン・チャーチル首相は、庶民院でこう述べている。

「そのため、私たちはこの責務に備えましょう。そして、もし大英帝国とその領土が今後1000年続いたとき、人々が今を振り返って『あの時こそ栄光の時であった』と言われるように振る舞うのです」

ドイツ空軍の激しい空襲による煙に包まれたセント・ポール大聖堂(PHOTOGRAPH BY U.S. OFFICE OF WAR INFORMATION/AP)
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『The Most Dangerous Enemy: The Definitive History of the Battle of Britain』の著者である歴史家、スティーブン・バンギー氏は、あの戦いで英国が負けていたら、チャーチルは首相の座から降ろされていた可能性があると指摘する。

「当時、和平への陳情が非常に高まっていました。ドイツ空軍が英国南東部の制空権を獲得し、ロンドンを絶えず脅かすようになれば、侵略の脅威はもっと現実味を帯びていたでしょう。そうなれば、チャーチル首相が権力の座を失い、『賢明な判断を。もう、終わりにしよう』と言う誰かに座を譲る可能性が非常に高かったのです」

 ヒトラーは、チャーチルの演説から1カ月後の7月19日、和平案を英国に提示している。

潮目の変化

 ホランド氏は言う。「(バトル・オブ・ブリテンが)重要な転機であったことは間違いありません。ドイツはあの戦いをきっかけに、複数の前線を持つ、勝つことのできない長い消耗戦へと向かっていったのです」

 英国侵攻をあきらめてから1年もたたない1941年、ヒトラーはジョセフ・スターリンとの間で1939年に結ばれた不可侵条約を破り、ソ連への侵攻を開始した。こうしてドイツは、泥沼の東部戦線へと足を踏み入れたのである。

文=Matt McCall/訳=堀込泰三

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