マララさんインタビュー「両親が権利をくれた」

最年少ノーベル平和賞受賞者はなぜ生まれた? 18歳の今、皆に語りかけること

2015.10.06
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2012年にタリバンに銃撃され、頭部に重傷を負って以来、マララさんはすべての女性には教育を受ける権利があると訴えてきた。2013年、アムネスティ・インターナショナルから「良心の大使賞」を授与され、授賞式に出席したマララ・ユスフザイさん。(Photograph by Joao Pina, Redux)
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 マララ・ユスフザイさんが誕生したとき、地元パキスタンに住むパシュトゥン人の村人たちは両親に同情を寄せた。生まれたのが男の子ではなかったからだ。そのマララさんは史上最年少のノーベル平和賞受賞者となり、女性の教育の重要性を訴えて世界中から注目されている。

 彼女は11歳のときからブログでタリバンを批判し、15歳のときに襲撃されて重傷を負いながらも生還。世界中の教育事業を支援する組織「マララ基金」を協力者と共同で設立した。

 今月9日、彼女の軌跡を描いたドキュメンタリー映画「He Named Me Malala」(ナショナル ジオグラフィックチャンネルとフォックス・サーチライト・ピクチャーズが提携)が全米で公開される(邦題「わたしはマララ」:日本では12月11日公開)。

 マララさんは米国ロサンゼルスでインタビューに応じ、どのように世界の指導者たちに行動するよう語りかけているか、なぜ自分を特別だとは思わないかを語った。

――もしあなたが教育を受けることなくパキスタンで暮らしていたら、今頃どうしていると思いますか?

 結婚させられて、子供が2、3人はいるかもしれませんね。18歳の今、未婚であるのは幸運です。もし教育を受けなければ、人生の大部分をほかの人に支配されてしまいます。私はそのような人生を望みません。(参考記事:伝統の影に隠された児童婚の現実「幼き花嫁たち」

銃撃から2週間後、英国バーミンガムの病院で治療中のマララさん。父のジアウディンさん、弟のクシャルさん(左)、アタルさん(右)と。(Photograph by Queen Elizabeth Hospital Birmingham, Getty)
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――タリバンはスワート渓谷を掌握し、あなたのような少女たちにそうした人生を押し付けようとしました。なぜ、批判する勇気を持てたのですか?

 両親はいつも、お前には意見を言う権利があると言ってくれました。学校に通う権利、自分らしくある権利、自立する権利があると。私の親友を含め、スワート渓谷にいたほかの少女たちも、家族からそうした権利を与えられていれば、今ここでみんなと一緒に、女性が教育を受ける権利を訴えていたと思います。ですが彼女たちは、そう主張することを許されていませんでした。

 私が言いたいのは、私は決してみんなと違う特別な女の子などではないということです。故郷には意見を述べるのが私よりうまい子も、私より意志の強い子もたくさんいました。ただ、表立って声を上げることを誰も許可しなかったのです。

――母国の友達と話すことはありますか?

 一番の親友とは今でも話をしています。

――あなたの人生が大きく変わったことに、きっと驚いているのでは?

 はい、でもそういうことはあまり話しません。プライベートな話をしたり、冗談を言ったりして、ただおしゃべりを楽しんでいます。大統領との会談だとか、ヨルダンやどこかの国に行くなんてことは話さずに、ごく普通の友達同士であろうとしています。

2013年、マララさんは米国のオバマ大統領、ミシェル夫人、長女のマリアさんと大統領執務室で会談。オバマ政権によるドローンの軍事利用に懸念を示した。(Photograph by Pete Souza, The White House/Getty)
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――一方で、各国の大統領や首脳とも会っていますね。彼らは話を聞いてくれますか?

 オバマ大統領と会談する前に、私は「記念写真を撮りに行くわけではありません」とはっきり伝えました。大統領にもそのつもりがあるなら、とても重要な問題をいくつか話し合いたかったのです。ホワイトハウスは私たちを歓迎してくれ、何でも話していいと言ってくれました。

――昨年、ボコ・ハラムが200人以上の女子生徒を拉致した事件に関して、ナイジェリアのグッドラック・ジョナサン大統領(当時)を訪ねた際には、大統領に対してかなり批判的でしたね。

 その日は私の17歳の誕生日でした。女子生徒たちが拉致されたのが4月で、大統領に会ったのが7月です。拉致されて3カ月もたっているのに、ジョナサン大統領は逃げてきた少女たちにも親たちにも会っておらず、何の支援もせず、その事件に触れることすらなかったのです。

2014年、マララさんは史上最年少でノーベル平和賞を受賞した。(Photograph by Cornelius Poppe, EPA)
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 大統領に会ったとき、私は力を込めてこう伝えました。「あなたはまだ逃げてきた生徒たちに会っていないし、支援もしていません。国民はおろか世界中の人々が声を上げているのですから、その声に耳を傾けなければ。彼らはあなたの国民です。あなたの国の人々です。あなたは彼らに選ばれたのです。あなたには応える義務があり、人々の声を聞く責任があります」

 数日後、大統領は逃げてきた女子生徒や親たちと面会しました。ある程度の経済的支援はされたものの、拉致から逃げのびた少女たちに、本当の意味での援助は行われていませんでした。奨学金の給付や、学校の安全対策といったことは全く行われていなかったのです。

 私は自分に何ができるかと考えました。彼女たちに奨学金を提供し、今では彼女たちは教育を受けています。大統領に訴えたことが実現しなくても、自分にできるのではあれば、やらない理由はありません。(参考記事:フォトジャーナリスト林典子「キルギスの誘拐結婚を語る」

――ほかの子どもたちも、あなたに続くことができるでしょうか?

 子どもたちが、自分の声には大きな力があると考えるのはとても重要だと思います。年齢は関係ありません。自分の力を信じればいいのです。世界中の兄弟姉妹に、自分たちの責任を自覚してもらいたいのです。より良い未来を望むなら、今すぐ行動を始めなければなりません。

 世界には無数の子どもたちがいます。みんなが声を合わせれば強大な力になり、世界の指導者たちも無視できなくなるでしょう。

 私は18歳なので、もう子どもではありません。法的には大人です。ですが、今も子どもたちの仲間です。

18歳の誕生日である2015年7月12日、マララさんはシリア難民のための「マララ・ユスフザイ女子学校」をレバノンに開校した。(Photograph by Wael Hamzeh, EPA)
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――幼いころ、将来政治家になりたいと言っていましたが、今でもそう思っていますか?

 そう思ったのは、スワート渓谷を恐怖政治が支配して、誰も私たちを助けてくれなかったときでした。学校に通うのを止められ、助けを求めても反応すらなく、自国にいながら難民のようで、状況が好転することはありませんでした。

 もし政治家になれたら、この国のすべてを変革して、もっと幸せな良い国にしようと思いました。ですが今はまだ、毎日たくさんのことを発見している最中です。最終的に自分にぴったりの仕事と、進むべき方向が見つかればいいなと思います。

――昏睡状態で英国に搬送されたとき、当時のゴードン・ブラウン英首相はあなたに『オズの魔法使い』を1冊贈りました。見知らぬ土地で目覚めて、家に帰る方法を見つけなければならなかったドロシーが、自分に似ていると思ったことはありますか?

 強くそう思います。ドロシーは家へ帰ろうとしますが、途中で出会った人を助けるために力を貸します。私も人を助けたいですし、子どもたちが学校へ通えるよう力を貸したいと思います。それが私の責任です。

 私にとって、母国パキスタンに帰るというのは、そこに暮らす子どもたちが質の高い教育を受けられるようにするということです。すべての子どもたちが学校に通える世界こそ、私が帰るべき場所なのです。(参考記事:「歴史を変えた、心揺さぶる子どもたちの写真」

文=Rachel Hartigan Shea/訳=高野夏美

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