民族浄化に揺れるミャンマーの古都

迫害されるイスラム系少数民族、ロヒンギャの窮状

2015.07.14
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ミャンマー政府がユネスコ世界遺産登録を目指している古都ミャウー。だが周辺地域は宗教間暴力の温床となっている。(Photograph by Paul Spierenburg, laif/Redux)
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 ミャンマー西部、ミャウーの肥沃な平原に朝日が昇り、中世に建てられた数百の寺院やパゴダ様式の仏塔を照らす。ここはかつてのアラカン王国の首都。当時の王たちは、16万人が暮らすこの都で、南アジアの交易路を支配していた。今は青々とした水田や、歴史ある僧院を牛が散歩する光景が広がる。

 夢のような穏やかさに包まれるミャウーだが、21世紀の今は悪夢に見舞われている。この古都があるラカイン州では、ロヒンギャと呼ばれるイスラム教徒の少数民族が容赦ない弾圧を受けている。彼らはこの地に何世代にもわたって住んでいるにもかかわらず「不法移民」とされ、国籍もそれに伴う権利も認められていない。

 2012年以降、ロヒンギャへの迫害は激化し、ラカイン州の中心都市シットウェにあるロヒンギャ地区は焼き払われてしまった。数万人が木製の粗末なボートに乗り込んで国外脱出を試みるも、受け入れる周辺国はない。密航には人身売買業者から法外な料金を要求され、払えないとその場で殺される。

 14万人を超すロヒンギャの難民は、ミャンマー政府が管理する難民キャンプに押し込められている。キャンプは1カ所しかなく、悪臭が漂う。ミャンマーの大部分には国際援助隊もジャーナリストも入れない。(参考記事:写真「カメラを見つめるロヒンギャ難民の子ども」

シットウェの北にあるロヒンギャのキャンプ。ロヒンギャの多くは何世代も前からミャンマーで暮らしてきた。バングラデシュからは不法入国の外国人とみなされ、劣悪なキャンプで暮らすことを強いられている。(Photograph by Adam Dean, Panos)
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 ロヒンギャの排除を主導しているのは、複数の国粋主義的政党と「人種宗教保護連盟」と称する僧侶たちの連立組織だ。

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 「民族差別的な法案が成立する背景には、こういった扇動的な組織と政府高官との密接な関係があります」と話すのは、1988年の全国的な民主化要求デモで中心的役割を果たした民主化運動家、キン・オーンマー氏だ。こうした法律は、表向きは文化と宗教の伝統を「外国の脅威」から守るのが目的とされている。

 しかしミャウーの文献史料によると、イスラム教徒やロヒンギャの先祖たちは、何世紀にもわたってラカイン文化に中心的な役割を果たしてきた。最盛期のアラカン王国は、仏教徒の君主の下にムスリムの学者や商人、キリスト教徒のポルトガル人船員、ヒンドゥー教徒の職人、そして仏教徒の貴族や兵士が隣り合わせで暮らすという、国際色豊かな国だった。(参考記事:フォトギャラリー「ミャンマー 闇と光の行方」

隣国バングラデシュに入ろうとして国境警備隊に止められ、不安そうな表情で処遇を待つロヒンギャの女性と子どもたち。(Photograph by Munir Uz Zaman, AFP/Getty)
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多様性を受け入れる王国

 1430年にアラカン王国を建て、壮麗な新都をミャウーに建設したミン・ソー・モン・ナラメイクラ王は、なぜロヒンギャが迫害されるのか理解できないだろう。「スレイマン・シャー」というイスラム教の名誉称号をもつミン・ソー・モン王は、イスラム教のスルタンが治めるベンガル地方で20年の亡命生活を送った。彼の政策は、敵対していた東の仏教国よりも、インド洋に面したイスラム教の同盟諸国を重視するものだった。その方針はその後も300年にわたり、後継の王たちによって踏襲された。

 ロヒンギャの歴史学者ムハンマド・ユヌス氏は、歴代のアラカン国王は仏教徒だったが、鋳造する硬貨にはイスラム教の信仰告白「アッラーの他に神はなし、ムハンマドはアッラーの使徒なり」がアラカン語、ベンガル語、アラビア語の3言語で刻印されていたと指摘する。

ミャンマー、シットウェにある簡易シェルター。暴力から逃れるため自宅を離れざるを得なかった難民たちがここで暮らしている。(Photograph by Jonas Gratzer, LightRocket/Getty)
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消されるロヒンギャの歴史

 歴史ある寺院が並ぶミャウーは、騒がしい欧米の都会から来た観光客にはのどかな楽園のように見えるかもしれない。だが、名所シッタウン寺院から15分も歩けば、民族浄化を扇動しているラカイン民族発展党(RNDP)の事務所がある。

 地元のビジネスマンは、「ロヒンギャは不潔で、ビルマ人から物を盗む泥棒だ。もといた場所へ送り返されるべきだ」と言う。人種に対する偏見と排外主義から来るこうした表現は、あちこちで聞かれる。(参考記事:「ミャンマーを蝕む中国のエネルギー需要」

2013年に発生した暴動の後、自宅があった場所を見に来たロヒンギャの父子。ロヒンギャの地区の多くは破壊されてしまった。(Photograph by Jonas Gratzer, LightRocket/Getty)
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 多くの研究者は、記録に残っている最初の2000年間、ラカインにはビルマ人よりもインド・アーリア人のほうが圧倒的に多く住んでいたと認めている。ロヒンギャの祖先をさかのぼるとラカインにたどり着くという証拠もある。英国統治時代の1901年に行われた国勢調査では、ラカインの住民のうち21%がイスラム教徒だった。ベルギーのブリュッセルに拠点を置くNGO「国際危機グループ」によると、2012年に暴動が起きる前には、ラカインの住民320万人のうち30%がイスラム教徒だったという。

 ミャンマー政府は公式に国内の民族数を135と発表しているが、ラカインのイスラム教徒、ロヒンギャはその中に含まれていない。現在、少数民族の支援団体「ビルマ・パートナーシップ」のコーディネーターを務めるキン・オーンマー氏は、「この数十年、ビルマではロヒンギャの歴史が抹消されているのです」と語る。多くの反体制活動家同様、彼女も母国を軍事政権が改名する前の国名で呼んでいる。

1530年代に建てられたシッタウン寺院は、ミャウーで一番の名所だ。迷路のような回廊は、仏陀の姿を表した無数の彫刻で飾られている。(Photograph by Luca Tettoni, Robert Harding World Imagery/Corbis)
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 最大野党・国民民主連盟(NLD)の党首で、今年11月に総選挙を控えたノーベル平和賞受賞者アウン・サン・スー・チー氏は、ロヒンギャの存在が地図から消されていることに関して今のところ公的な発言をしていない。オーンマー氏は、排外主義的なナショナリズムが勢いを増す中で「ロヒンギャ支援を打ち出すのは政治的に危険」としつつも、「人権派はスー・チー氏の沈黙に落胆しています」と指摘する。

 ロヒンギャ自らが政府の方針に反対する運動を起こすことはできない。ロヒンギャは、ミャンマーはおろか、どこに行っても投票権がないのだ。(参考記事:「ロマの成功者たち」

文=Frank Viviano/訳=高野夏美

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