『不思議の国のアリス』はこうして生まれた

出版から150年、その軌跡をたどる

2015.07.07
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ルイス・キャロルの名作『不思議の国のアリス』は、アリスが白いウサギを追いかけて穴に落ちるところから始まり、事態は「どんどん変に」なっていく。「ルイス・キャロル」は、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンのペンネームだ。(Painting by William H. Bond, National Geographic Creative)
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 1862年7月4日、ある人物の口から、魔法にかかったかのように物語があふれだした。怖いもの知らずの少女がウサギの穴に落ち、不思議の国に迷い込むという物語だ。語るのはチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン。内気で強いこだわりのある、英オックスフォード大学の教員だ。ドジソンは後に、即興で語ったこの物語を「ルイス・キャロル」というペンネームで出版することになる。

 奇想天外なストーリーのなか、主人公アリスは小さくなったり大きくなったりする。また、おかしなことばかりする三月ウサギやかんしゃく持ちのハートの女王、いかれ帽子屋、水たばこをふかすイモムシなどに出くわし、狂ったお茶会に招かれる。

『地下の国のアリス』としてまとめられた物語は、150年前の今週、『不思議の国のアリス』として出版された。

『不思議の国のアリス』と続編『鏡の国のアリス』で、ドジソンはしつこいほど不条理な会話を繰り広げる。論理は堂々巡りし、めちゃくちゃなだじゃれをふんだんに使い、造語を散りばめている。

 ペンネームからして言葉遊びだ。ドジソンは、本名のチャールズ・ラトウィッジをラテン語名(Ludovic Carolus)に変え、それを英語名に戻してルイス・キャロルとした。

 子ども好きだったドジソンが特にかわいがっていたのが、印象的な目をしたアリスという名の少女だった。ドジソンはアリスを喜ばせるために、彼女が主人公の物語を作った。

英オックスフォード大学、クライストチャーチ・カレッジ図書館事務室の窓際。ドジソンはここで働きながら、アリス・リデルが庭園で姉妹と遊ぶのを見ていた。(Photograph by Sam Abell, National Geographic)
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冒険の始まりは舟の上

 ドジソンは一見、不思議の国など創り出しそうにない人物だった。数学の講師であり、『行列式初歩』という数学の参考書を出し、生涯結婚せず、信心深く、英国を離れたのはヨーロッパ大陸を旅行した1回だけ。いつも聖堂を眺めて時間を過ごしていた。

 だが、その想像力は夢と現実の境目でたわむれていた。

 不思議の国はどこで生まれたのか。それは革表紙の本が並ぶ部屋だったのかもしれない。薄暗くひんやりとした部屋が、昼近くなり、太陽の光が差し込むときだけは金色に輝く。そこはオックスフォード大学クライストチャーチ・カレッジの図書館事務室だった。図書館長補佐だったドジソンが窓の外に目をやると、カレッジの学寮長ヘンリー・リデルの幼い娘たちが庭園で遊ぶのが見えたのだ。

 ロリーナ、アリス、イーディスの3人姉妹のうち、前髪をおでこで切りそろえ、思慮深そうな目をしていたのが3歳の次女アリスだ。ドジソンは彼女たちと親しくなり、お茶に招いて物語を聞かせた。後年、アリスが結婚してからドジソンは言った。「君たちと出会ってから、たくさんの子どもたちと友達になったよ。でもみんな、君とは大違いだった」

 ある夏の午後、朝から空を覆っていた雲を押しのけ、太陽が顔を出した。白いフランネルのスーツに麦わら帽子を被ったドジソンは、同じ大学の教員で友人でもある牧師ロビンソン・ダックワースとともに、少女たちを連れてフォリー橋へ向かった。一行は手漕ぎボートに乗り込み、アイシス川(オックスフォードではテムズ川をこう呼んだ)をさかのぼっていった。

 舟の上で、少女たちに「ドジソンさん、何かお話して」とせがまれ、ドジソンは次々と物語をつむいだ。ヒロインはアリスだった。

吃音のある内気な数学者チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは、子どもの前では機知に富む優しい語り手、ルイス・キャロルになった。(Photograph by adoc-photos, Corbis)
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 後に、ドジソンはアリスにその物語を書き留めるよう頼まれた。2年半後、1864年のクリスマスに、ドジソンは深緑色の革で装丁した手書きの本を彼女に贈った。ドジソン自身が描いた挿絵もあるその本には、『地下の国のアリス』というタイトルがついていた。

 友人に促されて、ドジソンは物語をさらに膨らませた。1865年には、『不思議の国のアリス』と改題され、ジョン・テニエルの挿絵がついた物語がマクミランから出版された。これが16万部のベストセラーとなり、楽に暮らせるだけの収入を得たドジソンは、給与を減らしてくれるようクライストチャーチ・カレッジに頼んだほどだった。

手稿本の旅路

 1928年、アリス・リデルはドジソンの手稿本を競売にかけ、米国のコレクターがこれを1万5400ポンド(約7万5000ドル)で落札した。半年後、このコレクターは15万ドルで手稿本を売却。1946年、手稿本は再び競売に出され、米国の愛書家たちから資金を募った米国議会図書館長ルーサー・エバンズが5万ドルで落札。エバンズの計画を知っていた書籍商たちは、入札を控えた。

 エバンズは1948年に渡英し、「米国が戦う手はずを整えるまで、英国の人々がヒトラーに屈しなかったことへの敬意」として、手稿本を英国博物館に寄贈した。現在は大英図書館に保存されているが、今年の10月11日までは、出版150年を記念するイベント用にニューヨークのモーガン図書館に貸し出されている。

ドジソンが1860年に撮影した「アリス」のモデル、アリス・プレザンス・リデル。ドジソンはビクトリア期屈指の写真家でもあった。(Photograph by adoc-photos, Corbis)
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 今やアリスの物語はアラビア語からズールー語まで50以上の言語に翻訳され、ダリやディズニーに描かれ、作曲や演劇、映画のモチーフとなっている。

 チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンが童心を忘れることはなかった。ある意味、彼は生涯大人にはならなかった。子どもに帰るのが好きだったと言ってもいい。

 ドジソンは、英国南東部サリーにある彼の姉妹の家に滞在中、肺炎にかかって65歳で死去した。その死を看取った医師は、階段を下りてきて穏やかに言った。「何とお若く見えることでしょうか」

文=Cathy Newman/訳=高野夏美

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