75年前に始まった太平洋戦争で、フィリピンにいた日本人移民とその家族は引き裂かれた。現地に取り残された日本人を、写真家の船尾修が記録した。

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フィリピンの忘れられた日本人

75年前に始まった太平洋戦争で、フィリピンにいた日本人移民とその家族は引き裂かれた。現地に取り残された日本人を、写真家の船尾修が記録した。

文・写真=船尾 修

「アリガト、ゴザイマス」。スギオ・アントリンさんは私に会うなり、そうあいさつした。彼が覚えている唯一の日本語だ。

 1935年にフィリピンのミンダナオ島ダバオで生まれたスギオさんは、7歳の時に父親をフィリピン人武装勢力に殺害され、その後はダバオ近郊にある母親の生まれ故郷の小さな漁村で暮らしている。

 スギオさんの父親はカジワラ・アチロウという名の日本人である。母親から聞いた話では、ロープの繊維として当時さかんに生産されていたアバカ(マニラ麻とも呼ばれる)の栽培に従事していたようだ。ハワイや南米と同様、戦前には日本人移民がフィリピンにも多数渡っていた。

 フィリピンは戦前、米国の植民地だったが、1941年12月に太平洋戦争が勃発すると同時に日本軍が侵攻・占領した。それはカジワラさんのような戦前からの日本人移民にとっては、まさに人生の歯車を狂わされた出来事だったといえるだろう。

 日本人移民たちは通訳などの軍属として戦時体制に組み込まれたため、米軍と共闘して独立を目指すフィリピン人武装勢力の「敵」として命を狙われることになった。戦闘に巻き込まれて殺害されたり、捕虜となって日本へ強制送還されたりする移民が続出する。彼らの多くは現地で結婚して家族をもうけていたため、大黒柱を失ったフィリピン人妻や子どもたちはその後、困窮した暮らしを強いられることになった。

 戦争が終結しても、日本人移民の家族を取り巻く状況は変わらなかった。

※この続きは、ナショナル ジオグラフィック2016年12月号でどうぞ。

編集者から

 船尾修さんは気骨のある写真家です。国内外で、環境や民族、文化をテーマに撮影と取材を続けてきました。この特集のテーマであるフィリピンの残留日本人との出会いは偶然だったということですが、私には必然だったように思われます。人間の本質と真摯に向き合ってきた写真家が撮るべくして撮った写真だと感じるのです。船尾さんが撮影した日系人や日本人移民の妻だったフィリピン人のポートレートには、1枚1枚、語られることのない壮絶な物語が秘められています。こうした声なき声を聞き取る力が、船尾さんにはあるのだと思います。(S.O.)

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